かんのんの寺 眞秀寺

北村西望翁略歴

北村 西望 翁 「たゆまざる 歩みおそろし かたつむり」

喜ぶ少女

喜ぶ少女

若いころ、私は朝倉文夫、建畠大夢という二人のすばらしい友人に恵まれた。二人とも彫刻の天才だった。私は二人に叶わなかった。二人の後をついて行くのがやっとであり、嫌でも私は勉強せざるを得なかった。そして、九年かかってようやく、私は、文展二等賞を得た。当時の文展では一等賞は該当作無しで、二等賞が事実上の一位だった。ようやく二人の友と肩を並べるところまで行きついた。この時、私は非常にうれしかったが、その一方で自分は天才ではないのだから人が五年でやる事を自分は十年掛けてでもやらねばならないのだと、心中、深く思った。それ故、長生きにも努力をした。

明治17年12月16日 長崎県島原で生まれる。四男二女の末子。
地元小学校の臨時雇い、そして正教員になるために長崎師範学校に入学する。寮生活で風土病になり入院、自宅療養。退屈で父が建てた隠居所の三枚の欄間制作に取り組む。(葦に雁、雲に龍、城に雲)

父や回りの人たちに彫刻の素質があると誉められ、その気になり明治36年4月「京都美術工芸学校」就学する。そこで生涯の友でありライバルでもある建畠大夢に遭遇する。彼は後に東京美術学校彫刻科に進学するが自分も負けずに同校同科に進学する。朝倉文夫氏、建畠大夢氏が次々入賞していくなか、西望氏は中々芽が出ず、ようやく九年目で「怒涛」が二等賞を獲得する。

長崎平和祈念像

長崎平和祈念像

長崎平和祈念像

昭和25年秋、西望氏67歳、長崎市から原爆犠牲者冥福(約7万人)を祈る記念碑建立の下相談ある。昭和25年末から26年2月まで構想を練る。基本要件は原爆、平和、犠牲者の冥福の三つを表すこと。観音にしようか、女神にしようか、着衣か裸体か、男性か女性か、立像か座像か、検討する。宗教色を出さず超越し、人種、国籍を超え、あらゆる人に受容される普遍的祈念像を模索する。半跏趺座の瞑想は約7万人の犠牲者の冥福を祈り、両手の一つは天を指して原爆を、横に延ばした手は平和を示している。約10mの高さで市当局は当初予算1,500万円。当時としては巨額でしたが、全然足りず、半分にも満たなかった。昭和30年の原爆十周年記念日の前日に約5年の歳月を掛け完成し除幕式を行う。

省みれば、幾多の非難、中傷、悪口、脅しがあったが、私はこれが失敗したら私の彫刻家としての生命を失うと思ったから、夢中であり気がふれたみたいになっていた。何がなんでも成就しなければと、その一心ですべての迫害に耐えた。どんな苦労があっても、像が成れば一切水に流される。この像を作ったことの満足は例えようがなかった。

この像が残る限り、芸術家としての私は、千年でも二千年でも生きる。これを思えば、これまでの労は何ほどでもない。彫刻家になって実によかったとこの時、心底感じた。
昭和62年3月4日没 102歳。

「百歳のかたつむり」より抜粋